「物書きになりたい症候群」の恐ろしさ
この世には「物書きになりたい症候群」というのがある。
何も存在しないところから、ただ紙に自分の好きな文章を書いただけでそれが銭に化ける。その瞬間を目の当たりにしたら、物書きになりたい症候群に感染するのも無理はないかもしれない。
しかも、物書きにはいい意味でアカデミックなイメージがある。格好良い仕事で大金を取ることができる。そのあたり、小学生の女の子がアイドルに憧れる心理に若干似ているかもしれない。
ところが、いざ個人ブログに何か記事を書こうと思うと、実は特に書けるものがないことに気づく。たとえば澤田は、クラウドファンディングに出てきた製品とかインドネシアのスタートアップとか社会貢献事業とかガジェットのレビュー記事とかを書いている。言い換えれば、自分にはフェイバリットがある。このフェイバリットを開発するのに、それ相応の時間がかかった。英語もインドネシア語も読めなきゃだからね。
断言するけれど、物書き志願者の9割9分9厘はフェイバリットを持ってない。
だから、己の信じる政治的主張を書く方向に舵を切る。これなら猿だってできる。「自分が好きな食べ物」について書くのとまったく同じだからだ。
左右の違いに限らず、ブログやSNSで政治的アジテーションを繰り返す無名の個人は脳ミソのどこかに「自分の文章がいつかカネにならないかな」という金銭欲がある。物書きで成功すれば大富豪になれるとかそういうものじゃなく、あわよくば月1万円くらいの臨時収入を得られるだろうという「ちょっとした皮算用」だ。けれど、そういうみみっちい欲ほど粘着質でしぶといものはない。
澤田の物書きの師匠、小野勝也博士は有名な保守論壇の人でもある。
正真正銘の「保守」だった。まず、あらゆる差別を全否定する。「あいつは中国人だから」という理由で生徒を差別するようなことは絶対にない。そもそも、小野博士は80年代に蘇州大学で教鞭を取っていた人だ。今、この大学で日本語学科の学長をやってる朱建明先生は小野博士の当時の教え子。
そういう人だから、何事においてもバランス感覚に優れてる。朝日新聞と産経新聞を両方購読してるほどだ。
今考えると、澤田の人生の中で初めて「君は物書きになりなさい」と言ってくれたのが小野博士だった。
そして勧めてくれたのが、この本。
初版が1994年なんだけど、今に至るまで版を重ねてる名著だ。
この中で「紋切型の表現を避ける」という項目がある。引用させてもらうと、
新しい汚職事件が発生すると「衝撃が日本列島を走り抜け」、人びとはその「大胆な手口」に「怒りをあらわ」にし、「癒着の構造」に「捜査のメス」が入って「政界浄化」が実ることを期待します 。
カッコ付けの部分が紋切型の表現っつーやつで、これは今でもよく聞くコピペ文だ。
2010年代はコピペ文に溢れてる。しかも、そのコピペ文を使ってる当人が「コピペ文を使っている自覚」がないという状態だ。「歴史の真実」、「マスコミが伝えない真実」、「思考停止」、「普通の日本人」。このあたりはネットで政治思想を叫ぶには何かと都合のいい紋切型表現だ。他にもいろいろあるけどね。
紋切型表現=コピペ文は、一種の呪縛でもある。物書きになりたい症候群の合併症と表現してもいい。そこから脱却できた人間だけが、ようやくマトモに米を取れるようになる。