たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

紙の新聞の死=ジャーナリズムの死?

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マネー現代のこの記事が、かなり話題になってるね。

gendai.ismedia.jp

案の定、批判のほうが多いこの記事。

けれど「紙の新聞の死はジャーナリズムの死」と言い切っちまうことに、なぜ我々は古臭さや悪い意味での頑固さを感じるのだろうか?

 

ここからは澤田の見解だけど、要はWebメディアは「部門の壁」をぶっ潰しちまうもので、新聞社の記者はそれを恐れてるんだと思う。

たとえば、長らく財務省番記者をやって来たキャップが、ある日突然「PCのグラフィックボードについての記事を書いてね」と言われたら、まあ間違いなく反発するだろう。

けれど、財務省の動向とPCの半導体の話題は、仮想通貨でつながっている。

2017年は仮想通貨大爆釣の年で、有名企業から一般人までマイニングに走った。おかげでグラフィックボードが品薄になり、ゲームをやりたい自作PC職人がかなり割を食った。

ところがたった1年で仮想通貨の価格がガタンと下がり、グラフィックボードがむしろ余剰気味になったわけだ。

そうなった根源は、国が仮想通貨交換所を法で定義して、財務省の管理下に置いたからだ。法定義されれば企業としても安心して行動に移せる。

 

Web媒体の場合、大抵はひとりのライターがここまでの流れを記事にする。それはそのライターが、部門の区別なくいろんな方面に精通しているからだ。Webは紙よりも記事の更新頻度が圧倒的に多いから、ライターもそのスピードに合わせてネタを出さなきゃならない。必然的に、いろんなことを知っている人間だけが生き残るという構図になる。

ずっと紙媒体で生きてきた記者は、たったひとつの部門に集中していればそれでいいという考え方で今もやっている。

 

「紙の新聞の死=ジャーナリズムの死」という発想は、「ジャーナリズム=政治関連報道」ということであって、それを取り扱わない人間はジャーナリズムじゃなくてただのライターだという考えに他ならない。

そんなことはない。たとえば政治とは何ら関係ない生活情報の記事だって、立派なジャーナリズムじゃないか。澤田は@DIMEで「自衛隊式靴磨き」の記事を書いたことがあるけれど、これだってジャーナリズムのつもりで執筆した。

dime.jp

財務省番記者をすることが一流で、靴磨きのようなライフハック記事を書くことが三流。もし新聞社の社員がそう考えているようなら、これはもう永遠に意見が合わない。

 

大手新聞社のキャップとフリーのWebライターの交流会っつーものは、もうやってる人いるのかな?

そういうイベントも探せばあるのかもしれないけど、あんま頻繁にやってる感じはしない。やればいいのに。マネー現代の例の記事を読んでると、つまるところ両者の交流があんまりないから「紙の新聞の死はジャーナリズムの死」なんつー発想が変えられないんじゃないか、と思えてならない。

どんな分野にも対話は必要だ。