「デジタルデバイド」が「情弱」になった現代
「デジタルデバイド」という言葉自体は昔からあって、それはもはや死語ではないか……という意見も昔からある。
たとえば下の記事は、2004年(!)に配信されたものだ。
この記事によると、当時日経新聞が「障害者のネット利用率が3割に迫ったから、もはやデジタルデバイドという言葉が死語になってるんじゃねぇか?」と書いたそうだ。
それに対して「なにしろパソコン」の編集長さんは、
多くの人が、毎日のようにネット経由でのサービスを使いはじめると「使えることが当たり前」になってきます。
すると使えない人たちのことなど気にならなくなり、実は騒がれなくなってきた頃が最も「情報による格差」が広がると心配しています。
「持っている」のと「使いこなせる」のとは別の話です。
と書いていて、とても興味深い。
そして上の記述にある「騒がれなくなってきた頃」っつーのは、まさに今現在じゃないかと思うんだ。
インターネット利用率を根拠に「デジタルデバイドは解消された」っつー推理はナンセンスそのもので、実際にはそれを使ったことがあっても使いこなせない人がたくさんいる。
スマートフォンというものが出てきてからは、尚更だ。スマホは持っているけれど、電話とメールしか使ってないという人の存在を考慮しなきゃ話は進まない。
でもって、「デジタルデバイド」という言葉がだんだん少なくなってきたのは、その中身が変容しているのとネット上で「情弱」という差別語に近い言い回しが出てきたからだ。
この解説を書いてから、すでに8年も経過しましたが、本当にデジタルデバイドという言葉は聞かなくなりました。
一方で「情報弱者」という意味の「情弱」といった嫌な言葉を目にすることが増えました。
そんな言葉と比べれば、デジタルデバイドのほうがまだましです。
本当にそう思う。実生活で他人様に面と向かって「情弱」なんて言葉は使えないよ、さすがに。
デジタルデバイドの話に戻ると、この現象は姿を変えながらずっと残っている。それを感じないとするならばその人は首都圏に住んでるからで、静岡くんだりまで出てきて半年でも暮らしてみればそれが理解できるはずだ。
市民の大半が「Uber」という企業名すら知らない。地元経営者は「エバーノート? 何それ?」と言い出し、市役所で「市営の施設にWi-Fi設置してください」と提言したら、「Wi-Fiって何ですか?」と返ってくる始末。誇張じゃねぇぞ。
別にインターネットというものがないわけじゃない。「整備されている」のと「活用されている」のとはまったく別問題で、これは単に世代毎のスマホ利用率を集計しただけじゃ解明できない問題だ。
「何気ない日常場面でスマホを使いこなせるか否か」というのが2019年3月時点のデジタルデバイドだと、澤田は感じている。それは結局、何ら躊躇なくスマホでの電子決済を利用できるかどうかの問題でもあるんだけどね。