新約聖書を読めば「ネットで人生崩壊」を予防できる説
新約聖書が面白い。いや、もちろん聖書は昔から読んでいるわけなんだけど、Web物書きとしてある程度稼げるようになってからその意味がだいぶ分かったような気がする。
この本は、現代のネット情勢を予言したものじゃねぇかと思っちまった。
まずは今の季節に合わせて、イエスの受難の部分を引用したい。イエスを偽救世主だと告発した群衆が、現地総督のポンティオ・ピラトに無理やり「こいつは罪人だから死刑にしろ!」と迫るシーン。ピラトから見ればイエスは重罪人と言えるような男ではないから、せいぜい鞭打ちで済ませるのが適当だと考えている。
そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。 そして、イエスをこう訴え始めた。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
(ルカによる福音書 23:1-5 新共同訳)
群衆は、何が何でもイエスを死刑にしたいと思っている。しまいには本当の極悪人で殺人犯のバラバという男を釈放し、代わりにイエスを磔にかけろと騒ぎだす始末。
ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 言った。
「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは三度目に言った。
「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
(ルカによる福音書 23:13-16, 18-25 新共同訳)
これ、冷静に読んだら『余命三年時事日記』の懲戒請求騒動と同じ構図だよな?
イエスが何で群衆から顰蹙を買うまでになったかというと、彼らに対して媚び諂うことなく諫言を口にし続けたからだ。群衆が期待したことを一言も言わず、むしろ外国の進駐軍の部隊長を大絶賛した。
当時のユダヤ民族にとっては、ローマ帝国からの独立は悲願だった。要は殺すべき敵を誉めちまったわけだね。
さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。 すると、百人隊長は答えた。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。 だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
(マタイによる福音書 8:5-13 新共同訳)
ユダヤの救世主のはずなのに、大衆心理を逆撫でするようなことばかりする。だからイエスは殺された。
大衆は、自分の望む情報しか受け付けようとしない。それを常時提供してくれる存在が「救世主」であり、そう考えると『余命三年』は「大衆にとってのメシア」なんだろう。
ところが、暴走する大衆を諫められないメシアは、やっぱり偽物だ。
それどころか、大衆が暴走するように仕向け、最後の最後で自分だけが逃げる。
ある特定の人物(この場合は弁護士)を数千数万のモブが重罪人呼ばわりし、懲戒請求という名の十字架を押し付けた。なのに、それを主導した人間は既にトンズラこいている。
「特アの連中と戦争しろ!」と叫んでいた張本人は、裁判所に向かう度胸すらも持ち合わせていなかった。
いかんせんこの商売だから、ネットで人生崩壊しちまった人間を何人も見てきている。
ただし、中高年層は「ネットで人生崩壊」という概念すら希薄だと思う。だから実際に弁護士側から訴えられるまで、言い換えれば30万円×テメェが懲戒請求した弁護士の人数分の損害賠償命令が下るまで、「ネットの使い方を間違えたら最悪人生が吹っ飛ぶ」という仕組みが理解できない。
SNSでの誹謗中傷を指摘されて、「たかだかネットだろ!」と逆ギレする奴は5、6年前のTwitterによくいた。ここ最近初めてスマホを手にした層が、5年遅れで同じことをやらかしている。
こちらが気を付けないと、ネットは人間を原始的にさせる。「新約聖書は現代のネット情勢を予言したものじゃねぇか」と先述したけれど、それは現代人の理性や感性が古代のレベルに逆戻りしてるだけじゃねぇかとも感じる。
最後に、これだけは書いておく。5年前と今との違いは、オンライン上での名誉棄損や迷惑行為が立派な犯罪として認識されるようになった点だ。それがオフラインの世界で発覚すれば、職も財産もすぐに吹っ飛ぶ。それが理由で困窮しても、助け船を出してくれるオンライン上の友達はまず出てこない。