名古屋のファイアトーチ騒動から見る「学校の伝統」
この土日は例のデマについてあれこれ書いた。
ひとつのことにあまり執着するのはよくないとは思ったけれど、それでもあれは見逃すことはできなかった。
けれど、今日からはまた正常運転に戻したい。
極端な話、小中学校に「伝統」というものは必要ない。
邪魔なだけだ、と思う。
公立なら尚更で、その目的が国民に義務教育を提供することであれば、学校内の伝統なんてものはないほうがいい。
伝統ガーと言ってるのは専ら周囲の大人で、学校は彼らのために存在する施設じゃない。子供たちに教育を与えるための施設だ。それ以上でも、それ以下でもない。
もちろんその原理は、名古屋市内のファイアトーチの件でも言える。
地元では賛否両論とのこと。ただ、「ファイアトーチを続けてほしい」という人は言っちゃ悪いけれど自己満足に浸っているに過ぎない。
火の使い方を生徒に教える目的なら、安全に火を起こすためのアウトドアテクニックを教えればいい。
内田良氏は「火を振り回している時点で、非常識な指導だ」と断言しているけれど、それじゃあ何でそんな非常識な指導が横行しているかというと、「伝統」とやらにいつまでもこだわっている周囲の大人に非があるんじゃないか。
「青春時代」は、あくまでも長い長い生涯の途中地点に過ぎない。
澤田に言わせれば、青春時代を過ぎたあとの人生のほうが何十倍も刺激的で、冒険的で、波乱に富んでいる。逆に「青春時代を超える刺激に遭遇したことがない」と言ってしまう人はちょっとヤバい。
ただし、高校を卒業した瞬間から「在学中の刺激をいつまでも味わいたい」と考えてしまう人は確かに存在する。この先、今まで以上の刺激に巡り合えないものだとハナから決めてかかる態度は、その人の持つ可能性を大幅に縮小させてしまう。
人生の絶頂点は中学~高校の青春期で、その甘酸っぱさをいつまでも味わいたい。
そう思案している人が、勝手に母校の「伝統」を創造してしまう。若い頃の思い出を永久保存し、なおかつ美化するための極めて都合のいい「伝統」が公立学校の中に横たわっている。
学校の伝統にこだわる人にとって、その学校の在校生は「後輩」だ。何歳離れていようが関係ない。たとえ自分が60歳だとしても、15歳の中学3年生を本気で「後輩」だと思っている。
澤田の感覚で言えば、たとえ出身校が同じでも在学期間が被ってなければ「後輩」でも何でもない。ただの他人だ。
学校とは、教育を受けるための拠点に過ぎない。だからOBは学校に対して何ら発言力を持っていないのが正常だ。
「ファイアトーチを廃止するな」と言ってるOBは、よほど味気のない人生を送ってるんだろうな、と澤田は邪推している。