たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

小野博士が少年革命家やトゥンベリさんに会ったら、多分ブチ切れてると思う

スウェーデン環境保護活動家グレタ・トゥンベリさんに関する澤田のツイートが、絶賛バズり中だ。

彼女の主張を否定する意図でこういう投稿をしたわけじゃない。「これはこれで、耳を傾ければいい」と指摘もあった。その通りだ、と澤田も思う。

けれど現実問題、「主張が正しい」から「その人物を信頼できる」というわけでもないのは、日本人だって散々っぱら学習してきたはずじゃないか。

TEDカンファレンスで「もはや無くなる将来に向けて、なぜ勉強すべきと言えるのでしょうか?」と言った同じ口で、「私だって学校に行きたい!」と言い放ってしまう心理。正直、澤田にはその整合性が見出せない。

本当に悪いけれど、彼女からは例の少年革命家と同じ雰囲気しか感じ取れない。今のところは。

この両者には共通点がある。

「学問の習得」を二の次にしているという点だ。

 

人間は科学法則には逆らえない。

アレキサンダー大王だろうとチンギス・ハーンだろうとナポレオンだろうと徳川家康だろうと安藤広重だろうと西郷隆盛だろうと力道山だろうとジャイアント馬場だろうと長嶋茂雄だろうと王貞治だろうとエディ・タウンゼントだろうと井岡弘樹だろうと、石炭を燃やせば必ず二酸化炭素を発生させる。

世界のどの学校で理数系科目を学んだとしても、その中身は寸分も変わらない。

だから、「政治家が教育システムを牛耳ってるから」なんていう理由で学問を放棄しては絶対にいけない。

独裁者タイプの政治家が欲しがっている人材は「学がない代わりに声の大きい奴」だからだ。

 

己の熱意だけで動くタイプの人間が分かってないのは、何かしらの斬新なシステムを構築するのには必ず「数学の得意な奴」が必要になってくるということだ。

集まってきた人間の中に誰一人として数学のできる奴がいなかったら、プロジェクト達成どころの話じゃなくなる。

どうして彼女は、学費がタダの国の国民なのにそれが理解できないのだろうか。

 

澤田の師匠の小野勝也博士は、常に「学問、学問、学問」の人間だった。

学問につまずいた学生に対しては優しく接し、肩を貸してくれた。一方で学問を最初から諦めている学生に対しては本気で怒鳴った。

小野博士は、澤田の「板書ができない」という性質を知っていた。だから「君は私の講義を真面目に聞いているから」という理由で評価してくれた。この恩は生涯忘れない。

澤田の好きなことを、学問としての体裁を整えた上で好きなようにやらせてくれた。どんなことだって学問につながる、というのが小野博士の考え方だったんだと思う。けれど、その分だけ学問の習得を軽んじる者や「学問不要論」を唱えるような奴に対しては八つ墓村の多治見要蔵のような態度で迫った。

「人間を進化させるには学問しかない」という澤田の考えは、小野博士の受け売りだ。

もし小野博士が少年革命家とトゥンベリさんに会ったら、多分、というより間違いなくブチ切れてると思う。

学問を低く見ているからだ。