たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

誹謗中傷の取り締まりで広がる「格差」

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木村花選手の自死をきっかけに、今後は誹謗中傷に対する裁判がさかんになっていくと思う。これは断言できる予測だ。

政府も黙ってはいない。IPアドレス開示がもっと簡単にできるよう、法整備されていくはずだ。これからは、まかり間違っても他人様に「死ね」とか書き込むわけにはいかない。その瞬間に人生は崩壊すると考えてもいい。

ところが、それはそれで大きな格差を生んでいる。

 

人は誰も、世間に物申したいと考えている。

もちろん、的確かつ大衆を引き付けるような言葉で世間に物申せる人間なんてのはごく一握りしか存在しない。自分以外の人間が、その言葉を面白く感じてくれなければ「物申す」以前の問題になってしまうからだ。

これは本人に備わったスキル云々の話で、何かを主張したいという欲の有無はまた別だ。

もっと言えば、スキルはないのに欲は有り余っているという人がこの世界にはゴマンといる。誰かがそれを「カラオケみたいだ」と言ったが、まさにその通り。音痴だけど歌うのは大好き。それと似たような心理が働いている。

紙の上に自分の作った言葉を書いたことがない者、そもそもそういう訓練を受ける機会が皆無だった者、そして「物申したい欲」が肥大化した者は、前回の記事でも書いた「嫉妬」と「焦り」がどこかで加わって有名人に対する誹謗中傷に走りやすい。本人はそれを「腐った世間に対する批判」と思い込んでいるから余計に厄介だ。

本当の問題はこの先。SNSでの誹謗中傷に対して有名人が簡単に訴えられるようになったら、彼らは欲の捌け口をどこへ見出せばいいのか?

そもそもが「死ね」「消えろ」「お前はネトウヨ」「お前はパヨク」「家に火をつける」と書き込むくらいしか文章スキルのない人たちだ。それを徹底的に取り締まり、なおかつ阿修羅の如き情け容赦ない訴訟を誹謗中傷被害者が起こすようになったら、ある種の格差が発生する。

大衆の望む意見や情報を発信できる人と、そうでない人のスキル格差だ。

IT関連企業の経営者やWebメディアの運営者は、恐ろしく気軽に「双方向間の情報のやり取り」という言葉を口にする。それは結局、価値ある情報をこちらからも発信できる人だけの特権だ。そうでない人間は、墓場に入るまで一生涯情報受信者即ち消費者であり続けなければならない。

最貧国の農村にまでスマホが行き渡った今、氾濫する情報の消費者であり続けることは常にカネと時間を浪費し続けるということだ。仕事をするべき時間をスマホに奪われた挙句、AIがその人向けに最適化した広告の商品を買わされる。Webの世界は、基本的に発信した者勝ちだ。

 

だから澤田は、ネットの誹謗中傷をあまり強く取り締まることには反対……というわけじゃない。

むしろ、そのくらいの格差はあって当然だと考えている。

悪いけれど、Webは平等をもたらさない。誹謗中傷ができなくなったことによる「捌け口の喪失」は現象として認識するけれど、「それなら別の捌け口を用意してくれ」と言われたらやっぱり困る。

つまるところ、彼らは適当なデモに紛れ込んで暴徒になるくらいしかやれることがないんじゃないか? そう考えると、黒人差別反対にかこつけてコロンブス銅像を勝手に引き倒す連中が出てくるのは当然かもしれないし、これからもっとそういうのが現れるだろう。

 

平凡であること、世の中のモブであることは決して悪いことじゃないし、格好悪いことでもない。

むしろ、この時代にモブであり続けることは勇気を必要とする。

それはインターネットとSNSがモブの存在を考慮してないからだ。「世界の誰もが情報発信の主役」という前提のせいでややこしいことになっている。

それは生まれた瞬間から何かと恵まれていたIT長者の妄想、という感じで捉えたほうが無難かもしれない。結局、この世は主役よりモブのほうが圧倒的に多いんだから。