たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

学校の読書感想文がプロ物書きを育てない3つの理由

澤田は専業物書きだ。今のところ、物書き以外の仕事はしてない。

人様の前でそう言うと、純粋に羨ましがられることが大体。自慢してるように思われるかもしれないけど、本当なんだから仕方ない。で、そのあとによく言われるのが、

「澤田さんって、小学校や中学校の頃は読書感想文が得意だったんですね?」

ということ。「ですか?」ではなく「ですね?」と断定調に問われることが結構多いんだ。

いや、読書感想文はむしろ苦手だったんだよ。そう返すと今度は、

「なるほど、それじゃあその苦手を克服したんですね?」

と切り返されちまう。

いや、それも違うんだ。澤田は読書感想文というものに、昔から価値を見出してはいない。ていうか、あんなもん即刻やめればいいとすら思ってる。

断言するけれど、読書感想文は将来の物書きを育てることは絶対にない。ライターの中には子供の頃に読書感想文が得意だったという人もいるかもしれないけれど、それじゃあ読書感想文がその人のライターとしてのスキルを磨いたのかというと、それはまずあり得ないと思う。それとはまったく別の要素が、その人を物書きにしたということははっきり言える。

読書感想文を書く技能ほど、物書きにとって不毛なものはない。理由は3つ。

1.本に「教訓」を求める偉い人たち

教育分野に携わる偉い人は、どんな本に対しても必ず実利を求める。

「この本を読んだらこういう教訓が得られる」という前提で、子供に読ませる本を選んでいる。

それって当たり前じゃないか? と思われるかもしれないけれど、それじゃあ単純にバカバカしくて面白いという趣旨の本はダメなのか?

こっちが読後に感想文なんぞ書く必要性が発生しないほど、最高にクレイジーで最高に面白い本はこの世にたくさん存在する。たとえば澤田は、小学4年生の頃に志茂田景樹先生の『戦国の長嶋巨人軍』を図書館から借りて読んだ。もうね、子供の目から見てもとんでもねぇ本だって分かったよ。

でも、現実問題そういう本のほうがガッツリ記憶に焼き付いてる。

本に対して教訓を求めようとすると、最初から「教訓探し」に夢中になって本の内容が頭に入らない。だから読み方も断片的というか、ページを細切れにして「教訓探し」の役に立つような部分だけを消化する感じになるんだよ。読書感想文の指定図書だって、あれは要するに偉い人たちが子供に「教訓探しの授業」をやらせるための材料でしょ? しかもその「教訓」は、ハナから大人たちが箇所を指定しているものだ。だから読書感想文自体が「先生の琴線に触れるような内容を予想して書く」というものになっている。

そういうのをやめて、真っさらな脳ミソで本屋か図書館を巡っていれば必ずクレイジーな本に辿り着く。そして、自分が書き手になった時に「売れるものは何か」をちゃんと考えることができる。

ちょっと想像すれば分かることなんだけれど、ハナから「教訓の普及」を目的に書かれた本って十中八九教条的で、説教臭い内容になっていく。そんな文章しか書けない物書きは、そもそも物書きとして自立できない。何しろ我々の世界は、みんなが思っている以上にパイが少ないんだから。

2.長い文章を書く癖がつく

「長い文章を書ける人は凄い」と、日本人は心のどこかで考えている。

冗談じゃない。文章はスピーチと一緒で、こちらがしっかり心がけないといつまでも終わらないものだ。文章は終わり方を先に考える必要がある。

澤田の物書きの師匠は東洋史学の小野勝也博士という人で、通っていた高校に講師として在籍していた。その時の選択授業で小野博士からいろいろ教わったっつー経緯だ。

当時の澤田は、「文章をどう終わらせるか」についてだいぶ悩んでいた。着物の帯をきゅっと締めるような最後の一文に、1時間近く思案する状態だった。結局、それをやるにはそれまで書いた文章の内容をまとめなければならない。高校時分の澤田は、それがとにかく苦手だった。

「内容をまとめる」というのは天賦の才能、と思っていたほど。ところが小野博士は、

「いや、天賦の才能なんかじゃない。訓練でちゃんと身につくものだ」

と言ってくれた。その言葉のおかげで、今の澤田が存在する。

つまり小野博士が教えてくれたのは「読んだ文章の要点をまとめる」という技術だ。それができれば、自分がアウトプットに回った際にもその要点を整理して最後の一文を書けるようになる。それじゃあ読書感想文で「まとめる技能」が身につくのか、というのが澤田の疑問だ。

読書感想文っつーのは、読んだ本の内容をさらに広げる作業だと澤田は考えている。この本の主人公と自分の生活を重ねてここに共通点がある、という感じだね。けれどこの場合、本の内容に自分の身の上話をプラスアルファしちまうから話がまとまるどころか余計に大きくなる。結果、長文になる。

それが癖になったら最悪だ。物書き、特にWeb媒体で書くライターにはそんな癖は必要ない。逆に、『薔薇の名前』とか『カラマーゾフの兄弟』みたいな長く難解な小説をたった3行に要約する技術が物書きの世界ではモノを言う。

3.「本の内容を忘れないため」という奇妙な目的

読書感想文全国コンクールに携わっている偉い人が、「読書感想文の目的は何?」という質問に対してこう答えていた記事をどこかで読んだ。

「せっかく読んだ本の内容を、いつまでも忘れないため」

だったら、おたくは本を読破する度にちゃんと感想文書いてるの? という話。

毛沢東語録を丸暗記する紅衛兵じゃないんだから、別に読んだ本の内容を少しずつ忘却しても誰も文句は言えないはずだ。けれど、その本の内容を記憶している間に己の行動や考え方にはっきりと変化が現れた。それでいいじゃないか。

読書の目的が「自分を成長させるため」だとしたら、それが実現さえすれば本の内容をいつまでも覚えているか否かということは重要じゃないはずだ。だから、自分の書いた文章が他人に読まれることはすごく嬉しいけれど、「澤田の書いた記事をこの先ずっと記憶していてください」とはもちろん言えない。そんなのは物書きの仕事じゃない。その時々で何かしらの気づきを読者に与えれば、記事の役割はそれで終わり。

頭の固い人は、澤田のその考え方に対して「文章をジャンクフードみたいに扱うな!」とか何とか言うんだけどね。ただ、さっきも書いたように物書きは意外とパイが少ない業界だから。本にもWeb記事にも賞味期限があって、物書きは常に新鮮なものを生み出さなきゃならない。逆に読者の側も、過去記事の内容を忘却して新しく配信される文章に飛びつく権利があるし、そうしてくれなきゃこっちも商売にならない。

 

このブログ記事を書いてる最中も、先に触れた「文章をどう終わらせるか」について悩んでいる。

個人ブログなんだからこのままぶった切っちまえばいいのかもしれない。けれど、これがメディアに入稿する記事だったらそうはいかない。だって澤田は物書きでオマンマ食ってるんだから。

そう考えると、読書感想文っつーのは別に商業ライターを育てるための教材ではないという事実に突き当り、この記事のタイトル「学校の読書感想文がプロ物書きを育てない3つの理由」もだいぶナンセンスな一文だということがよく分かる。