たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

「嫌いな相手」のネームバリューに思いっきり便乗する人々

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SEOというものは恐ろしい。

あるワードを文中に使うか使わないかで、PVに差が出てくるのがネットの世界。みんながどういう単語でググっているのか、或いはTwitterで検索しているのかを予め調査しなきゃならない。

「みんなが検索しているワード」とは、もちろん個人名も含む。

ネット世界で影響力を持つ〇〇さんの記事を読もうと思ったら、GoogleなりTwitterなりで「〇〇」とやれば出てくる。ところが、〇〇さんを批判非難している人もその理屈を分かっているから、批判相手であるはずの〇〇さんのネームバリューを勝手に利用しようとするわけだ。

 

ネット言論で有名な〇〇さんの不正を非難する目的の「〇〇グローバルクラブ」というアカウントが、Twitterに存在する。

この〇〇グローバルクラブという名前だけ聞けば、〇〇さんが作ったサークルなんだろうなと誰もが思うだろう。ところが実際は「〇〇はこんな悪いことをしている」と告発するためだけのアカウント。もっとも、その告発が嘘か本当かは知らないけれど。

恐ろしいのは、この〇〇グローバルクラブのメールアドレスも〇〇(このアカウントが非難している相手のフルネーム)@gmail.comなんだよね。

澤田は〇〇さんのことはまったく知らないし、本だって1ページも読んだことがない。だから〇〇さんが不正してるかどうかは、そもそも興味がない。けれど、こればっかりは〇〇さんは被害者だということくらい分かるぞ。

「俺はこれから〇〇の不正を公開する!」と息巻いてる奴が、結局のところ非難相手のネームバリューに寄生する。それがいかに卑怯で恥ずかしいことか、今もまったく気づいていない。

簡単な話で、澤田が菅義偉首相を非難するためだけに「菅義偉グローバルクラブ」なんてアカウントを作り、メルアドもyoshihide-suga@gmailなんてやったら、こんな迷惑なことはないでしょう。

 

ネットはやっぱり残酷な代物だ。「売れる情報」を持っていない人間に対しても情報発信を強要する。カネもコネもアイディアも商才もネームバリューも持ってない人間がSNSで何かしらの情報を発信するとしたら、非難先に選んだ有名人のネームバリューに乗っかりつつ風呂敷を広げるしかない。

すごいのは、そんなネット言論家のツイートやブログをリツイートする新聞記者がいるということだ。

大卒のインテリで何十年も報道分野の仕事で米を取ってきた人々が、「他人の褌で相撲を取る行為」に加担していることに一切気づいていない。どうりでメディア関係者は一般人から信用されないはずだ、と澤田はついつい考えちまうんだ。

「男どもを再教育キャンプに入れろ!」と主張する物書きの心理

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炎上しているツイートの画像をサムネにすることは、かなり危険なことだというのは骨の髄まで承知している。けれど、これは人間の尊厳に関わる問題だからやらせてもらう。

森会長を非難するあまり、「中国共産党がやってるような再教育キャンプに男を入れろ」と主張する人まで登場した。ただ、こういうブロガーが出てくる現象は、呆れはするけれど驚きに値するものではない。

政治家の失言は「物書きバブル」を生み出す。

それを上手く批判・非難した人間がネット論壇で大きく名を上げるという現象が存在する。見方を変えれば、政治家に対する批判が新しいフォロワーを呼び、上手くいけばどこかのメディアからも記事執筆の声がかかる。

その構図自体は、決して悪いことではない。常に批判がないと、政治家というものは必ず腐敗するからだ。ただし、自分のやってることは本質的には個人事業主だという自覚がないと、ネット言論家と呼ばれる人々は必ず迷走する。

 

何度も書いてることだけど、個人事業主というのは分野を問わず「フェイバリットで食ってる人間」だ。

そのフェイバリットが飽きられたり、時代錯誤になってしまうとたちまちのうちに干上がってしまう。

それを挽回する一番簡単な方法が、陰謀論や極論、他人の人権を蹂躙する主張を叫ぶこと。何だかんだで、過激な言論には客が集まる。つまり冒頭のツイート主は、これだけ拡散されてむしろ喜んでる可能性すらあるということだ。

ハナから故意でそうしているのか、或いは自分自身の人格が分からなくなっているのか。今回の場合、澤田は後者だと解釈している。ネット、特にSNSというのはあらゆる人間に「情報発信」を迫る代物に他ならない。フォロワーが多くなればなるほど、「何か大衆の興味を引く情報を発信しないといけない」というある種の強迫観念に苛まれるようになる。

たとえばトランプ前大統領は、その理屈をよく分かっていた。全米の「情報を発信したい病患者」を上手く利用して、見事大統領になった。ところが、取り扱う炎があまりに強過ぎるせいで最後は自分が飲み込まれてしまった。

 

Twitterをやり過ぎると、しばしば「Twitterでのキャラ」と「己の本当の人格」の区別がつかなくなる。

政治的言論を繰り返す人であれば尚更で、実はTwitterで言ってることは本意ではない……ということもある。上述の「自分自身の人格が分からなくなっている」とは、そういう意味だ。

そしてフォロワー数が多ければ多いほど、窮地からの脱出が難しくなる。

森会長とまったく同じ「差別」をして喜ぶ人々

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森喜朗会長の失言は、見事に他の差別発言を炙り出した。

森会長を「老害」「いつまでも居座るオジサン」と言って批判することは、結局「女は話が長い」という発言と同質だ。

ここぞとばかりに森会長を非難した人が、実は7年前に「なぜ男は長い会議をしたがるのか」という内容の記事を書いていた。これから森会長を非難するつもりで、わざわざ「日本企業では森会長のようなオジサンが放置されている」という記事を配信した著者及びメディアも現れた。

dot.asahi.com

president.jp

後者に至っては「女性活躍に反対するオジサン3つのパターン」と、ある特定の層にいる人を十把一絡げにタイプ分けしている。

「おたくだってオバサンでしょ?」という返し方をしてはいけない。人は生きている限り歳を食う。誰でも平等にオジサンかオバサンになる。加齢という名の必然的な現象を勝手に分類化し、「〇〇はああいう行動パターンだから」と定義付ける発想が時代錯誤だということに、何で気づかないんだろうか?

男性として生まれたけれど性自認は女性という人に対して、上の2人の筆者はどういう言葉をかけるつもりなのだろうか? まさか「あんたはオジサンだからこういう性格に違いない」とでも言うのか。

 

そういう発言をして自己矛盾を感じないのは、まさに「ネットの魔力」と言うしかない。

ネットでの言論活動は、カジノの「大小」によく似ていると以前にも書いた。

sawada.hateblo.jp

つまり本質が博打とあまり変わらない以上、「次のゲーム」のことなど考えているはずはない、ということだ。その時々のゲームに勝てばいいわけだから。

今現在こういうことを発言して絶賛を浴び、知名度を上げる。その繰り返しだから、過去の発言と明らかに矛盾したことを指摘されても弁明すらしない。今やってるゲームに勝てばいい。ネット言論に一貫性、整合性は求められない。

そして大小の本当の勝者は、目標の記事PVを達成したメディアの運営者即ちカジノのディーラーだ。

「コタツ記事」は悪くない

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澤田の手がける記事の半分は、いわゆる「コタツ記事」だ。

ただしそれは、NHKねほりんぱほりん』でやってたようなまとめ記事の粗製乱造ではなく、大なり小なりの実体験に基づいているもの。それを自宅の机の上で書いているに過ぎない。

 

澤田は多少のインドネシア語なら理解できる。

インドネシアのメディアの記事を翻訳して、それをより分かりやすく要約した記事も「コタツ記事」と表現することができる。

新製品のサンプルをメーカーから取り寄せて、それを自宅で試してみたという内容の記事も「コタツ記事」だ。

タツに入り浸りながら大金を稼ぐ。これは悪いことでも何でもない。それどころか「コタツ記事ライター」ほど理想的なバリアフリー職種はない。問題は月1000記事ものノルマを社員に化すキュレーションメディアの運営姿勢にあるわけで、「ライターが今どこにいるか」ということはどうでもいいし、ある一定以上のクオリティーの記事を書けるなら「コタツ記事ライター」でも構わない。

 

ねほりんぱほりん』を観て感じたのは、「あれはライターではない」ということだ。

「自分で記事を書いてない」とちゃんと言ってるわけだから、あれはWebコンテンツを制作するディレクターといったところか。いずれにせよ、あの人は物書きとは呼べない。我々のやってる仕事とは全然違う。

だから、今回のゲストを「コタツ記事ライター」として取り上げるのはかなり乱暴だ。

そのせいで真面目にやってるライターが偏見の目に晒されたらどうするんだ……などと、ケツの穴の小さなことを言う気はない。問題提起をするにしても、いささかピントがずれているんじゃないか……ということだ。DeNAのキュレーションメディアが起こした問題にしろ、「ライターが引き起こした」わけじゃなくて「ライターがいないから起きた」ことなんだと澤田は解釈している。

知識と発想力と筆力のあるライターを手配できなかったからこそ、まとめ記事の粗製乱造に頼らざるを得なかった。

今回の『ねほりんぱほりん』でその部分が掘り下げられていたかというと、残念ながらそうではなかった。これはやり直しが必要だ。

澤田を「保守派」とカンチガイする人々

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澤田は「保守派」だと見なされることがある。左右両方の人々から。

理由はいくつかある。まず、澤田は日本の右側の人々には人気のあるインドネシアに関する記事を書いているから(最近は書いてないけど)。そして中国主導の高速鉄道について、とあるニュースメディアで書いたことがあるから(その記事もかなりバズッた)。

それに加え、いつぞやのグレタ・トゥンベリの件も多分に拍車をかけたはずだ。

あのツイートをきっかけに澤田をフォローした人の中には「九条改正」とか「愛国」とか「反日は許さない」とかいう文言をプロフィールに書いちゃってる人が、まあぼちぼち存在する。

で、そうなると左側の人からも「澤田は右翼だ」と見なされちまうわけだ。

 

まず言っておきたいのは、澤田に限らず個人事業主の人脈は自ずと幅広くなるということ。

そこには個人事業主のギルドみたいなものが確かにあって(実際にそういう団体があるわけじゃないぞ)、思想の左右関係なく互助がなされるように設計されている。

しかもそれは、暗黙の了解みたいなものだ。

これがワイドショーに出ているような人なら尚更で、たとえ思想が食い違っていても明日同じ番組に出るかもしれない人をSNSで直接攻撃したりすることはない。

たとえば澤田のツイートに対立意見を返した同業者も、それは澤田と面識があって互いの気が知れているからネット上で堂々反論できるわけだ。そうでなければ顔を合わせない状態での議論なんて成立しない、というのが澤田の考え。

 

JX通信の米重さんは、こんなツイートをしている。

 これが本当だとしたら、多分その人は申し合わせでやっているのか、でなければ米重さんが懸念している通りの「今までどうやって暮らしてきたの?」というタイプか。

実を言うと、澤田も思い当たる節の人が何人かいる。「ああ、米重さんはあの人のこと言ってるんじゃないかなぁ」と思案してたりするんだけどね。

ただ、それとは逆に右で知られている評論家が実は左で有名な評論家と仲がいいという例は認識している。で、そういうことはひとつふたつじゃなくて、探せばいくらでも例がある。

当たり前なんだけれど、我々のような商売はどこかで協力し合わないと失業の可能性すらある。

それを知らない視聴者、読者、言い換えれば消費者が「あいつは右だ、あいつは左だ」と言ったところで、地球は今日も無事平穏に回り続ける。

「お母さん食堂問題」から考察するネット世界の本質

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アジアのカジノには「大小」というゲームがある。

3つのサイコロを同時に転がし、4以上10以下を「小」、11以上17以下を「大」とする。大と小のどちらかが出るかにチップを置くんだけど、ゾロ目はまた別枠に張らなきゃいけない。

これがマジでハマる。

やってみれば分かるんだけど、大にも小にも当てはまらないゾロ目が案外頻繁に出る。サイコロを3つも転がしてゾロ目なんて滅多に出ないだろ、と言われそうだけどいやいや結構出るんだよ本当に。

もちろん、ゾロ目を当てたらチップが何倍にもなって返ってくる。澤田もシンガポールのサンズでこの快感を経験済みだ。

で、よく考えたらこれってSNS(特にTwitter)での「活動」と一緒なんじゃないか?

 

 こんなブログ記事を見かけた。

note.com

つまり「お母さん食堂」に対して抗議の声を上げる活動家は、かつての総会屋と殆ど変わらないという内容だ。

 「総会屋」なんて単語自体かなり久しぶりに聞くんだけど、ただ「気づき屋」と総会屋が大きく違うのは、前者は所詮自分自身の利益しか考えてないということだ。それなら総会屋も一緒じゃないか、と言われるかもしれない。けれど総会屋は、仮にも「仕事」で得た成果を仲間と分け合う。「気づき屋」はそれすらしない。

自分の主張をバズらせ、仕事を呼びよせる。それが達成できれば、己の隣で同じように声を上げる他人なぞどうなっても構わない。実は最初から「結託」なんかしていない、ということだ。

これは、「気づき屋」も所詮個人事業主であるということと、ネットの世界じゃどうしても白黒両極端に分かれやすいこと、そして派手にバズった話題もすぐに忘れられるということが混ざり合っている。

ネットのおかげで自分の主張がバズってしまい、なまじ有名になった人(つまりその筋での仕事を得た人)は、引き続き己の影響力を維持しようとあらゆる手を尽くす。このあたりは、一世を風靡したお笑い芸人と通じるところがある。自分とは関係のない一企業に対して圧力をかけようとするのは、端的に言えば「私を雇え」ということだ。

それにしても恐ろしい時代です。例えばある企業が女性活動家を雇ってライバル企業の商品に「気づき」を突きつける。あるいは外資が日本市場参入を狙って「気づき屋」を雇う。こういうシナリオもありえますね。

「あり得る」どころか、実際にそういう欲望を公言する自称フェミニストが既に登場している。

sawada.hateblo.jp

もしも本当に企業が「気づき屋」を雇うようになったら、むしろ「気づき屋」の中での競争、というより闘争が熾烈になっていくに違いない。ネットでの「活動」は、本質的にはカジノの大小と全く同じだからだ。露骨な足の引っ張り合いや、目障りな同業者に対する集団での誹謗中傷だって平気でやるだろう。もちろん、この本質に政治思想の左右関係は関係ない。

「みんなで勝ってみんなで利益を分け合う」ということは、その活動がネットを主な舞台にしている限り絶対にない。先行者有利、同じ枠内の少数人だけの勝ち残り、熾烈なサバイバル。「ネットの世界で米を取る」というのは、その内容はどうあれ地獄の窯のような光景を覚悟しなければならない。社会活動をするというのなら、尚更だ。

2021年はますます「ライター志望者」が増えるという展望

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日経平均株価はともかくとして、2021年の実体経済は案の定冷え込むだろう。

今年は新型コロナワクチンの接種も実施されるはずだけど、だからといってすぐにでも2020年以前の光景には絶対に戻らない。今年の卒業予定者は本当に大変だ。悪夢の就職氷河期が再来する可能性だってある。

今現在働いている人も、いつ解雇や会社倒産の憂き目に遭うか分かったもんじゃない。

だからこそ文章がカネになるライターという商売で月数万円でも稼ごう、という人が増えるのは当然の流れだと思う。

 

これからライターを始める人に言っておきたいのは、この世界もつまるところ「サバイバル」だということ。

そしてもっと言うと、ネットの存在を前提にするビジネスは常に「先行者有利」という原理が働いている。

澤田がWeb物書きとして身を立てられるようになった最大要因は、スマホが普及したことだ。殆どの人が、PCではなくスマホの画面で記事を読むようになった。その現象と、小野勝也博士に伝授された「展開されている事象を自分なりにまとめ、整理する技術」が偶然合致した。コンパクトな文章(を書ける考え方)を小野博士から学んだことが、今の澤田の生活を支えている。

何だかんだで、技術的なフェイバリットが我が身を助けるという事実がこの世界にもある。

 

澤田がSEOライティングに否定的な理由は、それをやっているとボギャブラリーが身につかないからだ。

「この場面にこの表現を使うか!」と読者に思ってもらわなければ、この先継続して物書きの活動をすることは難しい。ところがSEO重視の記事を書いていると、どうしても文章が紋切り型になっていく。金太郎飴型、と書けばいいか。

この金太郎飴型の記事というのは、それこそAIが得意とする分野で、別に人間が書く必要はない。結局のところ、人間のライターがAIに勝つための唯一の手段はボギャブラリーだ。

ライター独自のボギャブラリーを「癖」と判断し、嫌がるメディアも確かに存在する。

ただ、そんなメディアはいずれ人間のライターじゃなくてAIを使うようになるだろうから、早いとこ縁を切っても構わない。

そうでなくともライターという商売は、入り口は恐ろしく広いけれどそこから一寸先は地獄の針山のような世界。ライター志望者が増えれば増えるほど、より癖の強い文章を書ける物書きがその強みを発揮する。