たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

不登校は不幸ではないけれど、だからといって君が必ず幸福な大人になれるとは限らない

数日前、澤田は「お言葉少女」について書いた。

大人になったお言葉少女は、ただの痛いおばさんだ。10代の頃とまったく同じことをやっているのに、いや、まったく同じことをやっているからこそ、直視できないほど痛い。冷静に考えたら不自然極まりない言葉遣いは、少女特有の初々しさで愛くるしいように聞こえた。

もう少し正確に書くと、孫の顔を見る年頃の人たちがお言葉少女を「愛くるしい」と勝手に感じていたに過ぎない。70年代の半ば以降、テレビは子供と老人のものだった。大相撲の横綱だった輪島が引退して全日本プロレスに加入した時、日テレの視聴率が一時的に跳ね上がった。それは輪島見たさに全国の高齢者がチャンネルを日テレ系列に捻ったからだ。

いろいろな面で保守気取りな老人の琴線に触れるような文言を並べ、その上で10歳そこそこの少年少女、言い換えれば「疑似孫」を提供してやる。

それと同じ流れの現象が、ネットの普及した今でも起こっている。

headlines.yahoo.co.jp

バズッた、というより炎上しちまった琉球新報の記事。

この少年革命家がお言葉少女と違うのは、「不登校は不幸じゃない」という文言で若年層にもリーチしようと試みてる点だ。

確かに、不登校は不幸ではない。

不登校になるには理由がある。校内でいじめられているのなら、それはどう考えても学校から逃げるべきだ。無理に学校に行くことは、むしろ勉学の機会を損なう。

担任の先生が狂人だった(これは澤田が経験している)、PTAの役員を押し付けられた、そもそも日本の学校の管理教育はおかしいと思っているから。これらを理由に子供を学校に通わせない、という選択肢も当然あるだろう。

ところが、彼の動画にはそういう感じの「理由」が全く見えてこない。不登校を他人にも勧められるだけの強烈な理由が。

不登校は不幸じゃない。無理やり学校に通ってる子の方が不幸だ」という宣言だけでピリオドを打っている。

澤田は自分の質に合った仕事を探した結果、Web物書きになった。それと一緒で、その子の質に合ったことを模索した結果不登校になった、というのが一番自然な流れなんじゃなかろうか。

彼の場合は、「結果」と「過程」の区別がどうもついていないように感じる。「こういう事情があるから、たまたま不登校になった」ではなく、「能動的に不登校という選択をした俺は幸せだ!」とYouTubeで主張している。けれど、その先のビジョンがぽっかり抜けている。

大体、彼が自分の言葉で話してるとは到底思えないしね。

youtu.be

これを「彼が思った通りのことを話してるんだ」なんて考える大人はいるのだろうか? 絶対カンペ見てるよね?

 

ある特定の選択肢を選べば、即座に幸福になれるという風潮がある。

たとえば大相撲の玉鷲関は、本当ならホテルの従業員になるつもりで来日した。ある日街を歩いていると、たまたま自転車に乗った力士を見かけた。興味本位で追いかけてみると、そこは井筒部屋。その後は鶴竜関の導きで片男波部屋に入門したということだ。

もしもこの時、自転車に乗った力士を追いかけていなければ玉鷲という関取は存在しなかった。

けれど、だからといって「彼がこの選択肢(力士を追いかけて井筒部屋に辿り着く)を取ったから関取になることができた」というのは間違っている。

玉鷲関が幕内最高優勝を果たした理由は、15年間猛稽古を重ねたからだ。

ところどころで稽古をサボっていたら、せいぜい三段目止まりで終わっていたはず。「正しい選択をすれば必ず幸せになれる」という情報商材提供者が大好きな文言は、大相撲の土俵では通用しない。

ローマ教皇の「幸せはスマホアプリとは違う。それをダウンロードしたからといって、あなたは必ずしも幸せにはなれない」という言葉が身に沁みる。

琉球新報の記者とデスクは、その言葉を噛み占めるべきだ。