たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

「お言葉少女」の言葉には説得力が皆無だった

25年前に「日本一美しい日本語を話す少女」として話題になった「お言葉少女」がテレビに出演した。

年を取っても変わらない「美しい日本語」に対して、その番組の司会をしていた古舘伊知郎が開口一番「寒い」と言った。

その上で古舘氏は、

「これは自己パロディではないですかね?」

みたいなことを付け加えた。

「自己パロディ」とは、言い得て妙。つまり、お言葉少女は自分で自分のキャラを演じているというわけだ。

さすが古舘伊知郎だ。新日本プロレスの実況をやっていた時代から、言葉だけで戦ってきた人間は違う。

大人になったお言葉少女の喋り口調は、お世辞にもナチュラルなものとは言えなかった。

はっきり言って、ただの痛いおばさんだ。売れない芸人みたいで、あれを「美しい日本語を話す人」とは誰も思わないだろう。

それは文字通り少女だった頃の映像を見ても分かる。

youtu.be

これを見て、「ああ、この子はなんて美しい日本語をすらすらと話すのだろうか」と思う現代人はいるのだろうか?

25年前なら、彼女をもてはやした人はたくさんいただろう。けれど、その25年の間に人々はネットを通じて、人間の光と影を嫌というほど見てしまった。そういう意味で、人間は進化している。誰が本音を語っているのか、或いは道化を演じているのか、何となく判断がつくようになった。

美しい日本語を話す少女は、自然な言葉で本音を語ることができない。

そのまま成長しておばさんになり、初々しさの枯渇した状態で昔と同じことをやる。そこに美しさは微塵もない。古舘氏の言う通り、寒さだけしか残らない。

 

言葉は語彙が全てだと思う。

語彙、ボギャブラリーが言葉にあるか否かが重要で、美しい日本語云々は説得力にまったく反映されない。

口は悪いけれど、ふとモノの譬えにシェイクスピア作品の一説を挙げる。その人は一見ジャンクな性格のようで、実はいろいろなことを見て知って経験している。だから並の人間とは知識量が違うし、言葉にもそれが表れている。

だから、その人には意外な人脈と人望がある。

「美しい日本語」を覚える暇があったら、まずは黙って本を読んだ方がいい。