墜落事故のライオン航空は、日本のクレジットカードが使えない
日本でも大きく報道された、インドネシアのLCCライオン航空の墜落事故。
この会社は現地系なんだけど、インドネシア国外で発行されたクレジットカードは使えないということで有名だ。
けれどこの症状は、ライオン航空に限らずインドネシアのオンラインサービス共通の出来事。国内発行と国外発行のカードが厳密に区分けされていて、国外発行のカードには対応していないっつー例もしばしば。
ここからは澤田の推測なんだけど、多分これが原因なんじゃねぇのかな。
インドネシアは内資優先主義の国。たとえばスマホでも国内部品調達率が30%を超えてないと輸入品扱いされる。このことは、LIFULLインドネシアのメディアとかでもしつこく書いてきたんだけどね。
新型iPhoneのインドネシア上陸と、eSIM対応の動向 |ライフルメディア
クレジットカードに関しても、インドネシア政府はVISAやMasterCardにある種の圧力をかけた。まあ、「圧力」っつーのは語弊があるんだけどね。要はインドネシア国内の決済システムにもっと投資しなさいっつーことだ。
決済処理を国外から国内に移す。今はその過渡期だ。断言できないんだけど、インドネシアの現地系オンラインサービスで外国人のクレカが使えない理由は恐らくここだと思う。
『恋と嘘』が結構面白い
インドネシアのアニマックスでは今、『恋と嘘』のアニメを放映している。
これがなかなか面白い。
日本は少子化対策のために「ゆかり法」という法律を制定した。これは政府が遺伝子判定に基づいて予め結婚相手を決めるもので、それに逆らうことはできない。 もし逆らったら、社会不適合者として世間からハブかれる。その状況下でひとりの男子×ふたりの女子の恋愛模様が繰り広げられる……というのが大まかな内容だ。
何が面白いって、この作品が「理不尽な政府に立ち向かう」という男性的な内容じゃないっつー点だ。人権侵害以外の何ものでもない法律が存在する、というのは『恋と嘘』では話を盛り上げる一要素に過ぎない。そこで展開されているのは、ティーンエイジャーの「ごく普通の」恋物語。
良い意味で女性的な作品に仕上がっている。
だって、考えてごらんなさい。『恋と嘘』の舞台背景をそのままシルヴェスター・スタローン主演&監督の作品に移植したら、筋骨隆々のロートルオヤジが青二才どもを従えつつ自由と独立のために怒りの機関銃をぶっ放すっつー内容になっちまうぜ。
まあそこまで極端じゃなくとも、男性的な発想の作家に「ゆかり法」の設定でシナリオを書かせたら「社会不適合者とされた主人公がゆかり法を打倒するため雄々しく立ち上がる」という流れになるはずだ。ところが、『恋と嘘』はそうならない。
最初から「革命物語」を期待している人にとっては、恐らくとんでもなくつまらない内容だと思う。けれどその発想は、敢えて語弊のある表現をすれば「男性脳」の思考回路だ。『恋と嘘』は「女性脳」が練ったシナリオを採用しているから、どこまで行ってもハードボイルド展開なんてあるはずがない。
フリーランスにとっての「海外旅行」とは
澤田は年に3、4回、東南アジアに渡航する。
特にインドネシアでは仕事のネタもあるし、友達もいるし、格闘技の師匠もいる。何より、ネット環境さえあれば世界のどこでも同質の仕事ができるという背景を澤田は持っている。
けれど、だからといって何ヶ月も海外旅行をするのは危険だということは、この前書いた。
日本語で記事を書いて米を取っている以上、こっちも日本語の本をインプットし続けないと物書きとしてのレベルが下がっていく。大型書店で立ち読みをするということが、物書きにとってどれだけ大切か。どこかのブロガーが開くサロンに1万円出すよりも、丸善で1時間立ち読みをするほうが遥かに有意義だ。
海外旅行に出ている間は、それが一切できない。だから「海外旅行=物書きとしてのブランク」と考えても間違いではないと澤田は思う。物書きは、他人の本を読むことも仕事だ。それは物書き以外のフリーランスにも当てはまる。
確かに、読書は人間関係をもたらさない。本を読んだからと言って、人脈が広がることは絶対にない。
フリーランスに憧れる人は、とにかく手っ取り早い成果を求めがちだ。本屋でひとり立ち読みすることよりも、サロンでの名刺交換会に意義を感じる。ビジネスセミナーと銘打った講座でも、受講生に「100人と名刺交換しろ」とノルマを課すところがあるらしい。
その命令に何の疑問も感じず従う受講生も受講生だ。自分自身がレベル上げをしないと、寄ってくる人間も所詮同レベルなのに。
そんな状態で海外旅行に行っても、己のフリーランスとしてのレベルがますます下がるだけだ。数年は大型書店の住人になる気で立ち読みに勤しみ、フリーランスとしての実績を出す。海外旅行なんか、そのあとで構わない。
それを知ってか知らずか、享楽的な夢ばかりを強調するブロガーやアフィリエイターがあまりにも多過ぎる。
澤田とビクトル投げ
格闘技選手としての澤田のファーストキャリアは、木口道場川崎支部でのコンバットレスリング。
そこの運営者は梶泰章先生という、柔道でもサンボでもノンジャケットのグラップリングでも滅茶苦茶強い人物だ。ビクトル投げという技も、この道場で初めて知った。それは「投げ」という呼び方をしていいのかという感じの、どちらかと言えば相手を引き込んで丸める技。柔道じゃ絶対使えないものだけど、サンボとグラップリングでは時たま見ることができる。
澤田が20代後半を迎えた頃に入門した静岡市のダブルライズでは、我らのビッグボスことブラックさんがビクトル投げをよくやる。
梶先生とブラックさん、どっちもビクトル投げのスペシャリストなんだけど、そのふたりに教わっているはずの澤田はなぜかビクトル投げが苦手。
上手く引き込むことも、首尾よく回ることもできない。澤田のスタイルはスピードも柔軟性もなく、とにかくベタベタした感じ。要するに、器用なグラップラーじゃないんだ。
こんな技を最初に考え出した人は凄ぇよな、と高校の頃にふと思ったりもしたんだけど、その張本人であるビクトル古賀さんが亡くなった。
グラップリングの歴史に大きな影響を与えた人物、というだけじゃない。たった一人で旧満州から日本へ逃れてきたという過去がある。当時僅か10歳の少年が馬に乗り、ソ連軍に追われながら地平線を駆け抜けついに日本に到着した。
コサックの血を引く少年は、己の勘のみで川を探し当て、太陽を見て方角を判断した。「真実は小説より奇なり」とはよく言ったものだ。
詳しくは、以下の本を読んでいただきたい。
たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く (角川文庫)
- 作者: 石村博子
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偉大な格闘家、ビクトル古賀さんのご冥福をお祈りします。
「最貧国の子供たちにPCを送ろう」という活動は十中八九失敗する
ヒラリー・クリントンも熱を入れていたことがある、「貧しい国の子供たちにIT教育を受けさせよう」という慈善活動。
最近では、こんな取り組みもある。
有名な非営利団体『OLPC』に関する記事。凄いのは、太陽光パネルがセットになってるPCを発展途上国の子供たちに配っているということだ。しかもこのPC、1台100ドルほどの値段らしい。ベラボーに安い!
これと学習に特化したソフトウェアを組み合わせて、世界の子供たちにIT教育を提供しようという試みを行ってるとのこと。ITだけじゃなく、算数や音楽の授業にも活用できるっつー話だ。
澤田はこのテの取り組みを疑っている。
その理由は単純で、子供はやっぱり勉強よりも遊ぶことのほうが好きだからだ。
先述のPCを使って花開く才能もあるだろう。けれどそれ以上に、スマホは低価格化が進んでいる。どこの国でも、子供がスマホで遊ぶ光景は珍しいものでなくなった。
上の記事では、
ベンダー氏は、「シュガーを作った当初は、『実際に子どもがソースやコードを見たりするのか?』と聞かれ、私も『やらないですね』と答えていた。しかし、数年経つと状況は全く変わった。2012年にはシュガーのパッチの50%は子どもから提供されるようになった。ライセンスを付与し、やり方を教えてあげれば子どもたちは実際に使う」と述べた。
とか、
また、南米のウルグアイで2009年と2010年に行った調査によると、シュガー導入前の子どもたちは、PCを使って「ゲーム」をすることが多かったが、シュガー導入後は、ゲーム以外にも「文章を書く」「ソフトウェアのコードを書く」「絵を描く」「情報を検索する」など自己表現のためのツールとしてPCを使うことが増えたのだという。
という感じで、どういうわけかかなり昔のデータが多用されている。ちなみに、該当記事の配信日時は2018年8月17日。
インドネシアの話で言えば、2013年の半ばから100ドル前後のスマホが一気に普及した。配車アプリ『Go-Jek』が大成功したのも、ローエンドモデルのスマホが大衆に浸透したからだ。
学習用PCとスマホ、子供にとってどっちが魅力的かと言えば、やっぱスマホじゃねぇのかな? Facebookできるし、ポケGOできるし、ようつべ観れるし。
OLPCの関係者は、何でここ1、2年の話を殆どしないのか。2012年と今とじゃ状況が全然違う。
『テクノロジーは貧困を救わない』という本があるんだけど、これによるとPCやらスマホやらを渡された子供たちの大半はゲームとSNSしかしないそうだ。それができない仕様のPCは、誰にも見向きもされなくなる。結果、埃を被って朽ちていく。
当然だよね。かつては「テレビを教育に活かそう」という試みもあって、テレビ朝日とテレビ東京が教育番組専門局だったんだけど、それじゃ視聴率なんか取れない。
60年代の日本で一番強かった民放は日本テレビだった。日、火、水、木、土のゴールデンタイムはプロ野球の巨人戦で、月曜は歌番組、火曜はジャイアント馬場全盛期のプロレス中継だった。この番組表で、日テレはゴールデンタイムになると常時30%の視聴率を取ってたわけだ。
それを少しでも切り崩すのに、教育番組はまったく役に立たなかった。テレ朝なんか金曜のプロレス中継に対抗するために、日本プロレスに恨みを持つグレート東郷に接近しようとしていたほどだ。ところがそれを察知した日プロが、テレ朝にアントニオ猪木の試合の放送権を渡す手段に出た。ここからテレ朝は教育番組専門を捨てて「普通のテレビ局」になっていくわけだ。
最先端テクノロジーというのは、娯楽と共に発達する。断言すると、教育分野へのテクノロジーの転用なんてのは二の次であることが普通だし、そもそも圧倒的な経済力を持った国の人間が「教育」なんてものを途上国に大量輸出するのはどうかとも思う。
「海外旅行しながら月ウン十万円稼ぐWebライター」を体現させている澤田
この記事を書いている時点で、澤田はバリ島のホテルに滞在している。
ネット環境さえあれば、世界のどこにいても同質の仕事ができる。これは事実だ。だから自宅だろうとバリ島だろうと、月ウン十万円はちゃんと稼いでいるし、今のところ生活資金には困ってない。
そこで今回は、どんな人でも「海外旅行しながら稼げるWebライターになる方法」を少しだけ教えます。
澤田の記事では、「この先は講演会で教えます。参加料はウン千円です」だなんて言いません。だって、非常に簡単なことで誰でも物書きになれますからね。
「旅行しながら稼げるWebライター」になる方法。それを一言で書くと、
「本屋で毎日立ち読みしよう」
これしかない。本当に、これしかない。
紀伊国屋とか蔦屋とか丸善とか、とにかく立ち読み自由の大型書店に毎日足を運んでいろんな本を読む。なるたけ上階にある専門書がいい。1階と地下階に置かれている本は、平積みのものも含めてジャンクな内容のものが多いからだ。
言論家の書いた思想書はまずい。このテの本はジャンク扱いで構わない。それよりも、日本史の博士号を持った人が書いた日本史の専門書を読もう。こういうのはほぼほぼ平積みされることはなく、何年も背表紙を向けた状態で埃被ってるんだけど、その埃を振り払って読んでみよう。
まずは、近所の大型書店の住人になる。その生活をとりあえず3年続ける。図書館でももちろんいいけれど、できれば地元で一番規模の大きいところに行くのがベスト。小さいところは、愛読者こそ多いけれど内容はジャンク級の本しか置いてないということがたまにある。
Twitterとかで「海外旅行しながら稼げるライター講座」なんてのを主宰する人が結構いて、そういうアカウントから澤田はよくフォローされるんだけど、この人達はハナから他人様を騙す気でいるか、そうでなければ「海外旅行=読書のブランク期間」であることに気づいてない。
海外旅行が長期に渡るほど、日本語の本が読めなくなる。Kindleでダウンロードすりゃいいじゃねぇかと言われそうなんだけど、電子書籍というのは立ち読みができない。このあたりで「海外旅行しながらライターの仕事をする」という部分に矛盾が生じる。旅行の期間が長くなると、ライターとして劣化していく。
年寄り臭いことを書いちまうけど、「本屋での立ち読み」や「図書館通い」がどれほど己の血肉になるかを理解する人が少なくなった。海外旅行とは、その貴重な時間を犠牲にしてしまう行為でもある。澤田は用件さえ住めば、さっさと帰国してまた本屋の住人に戻る。
Twitterとかでよく見る「この講座に行けばライターとしてのスキルが身につく」という謳い文句は、まず信用に値しない。ローマ教皇フランシスコの言葉を借りれば、幸せはスマホアプリとは違う。それをダウンロードしたからといって、途端に幸せが訪れるということは絶対にあり得ない。
ここに1万円あるとする。それをTwitterで知ったライター講座につぎ込むことを考えてるのなら、ちょっと待ってほしい。澤田は最近、塩野七生先生の『海の都の物語』を文庫で全巻買ったんだけど、物書きになりたいっつーのならできるだけ本を買う方向へ可処分所得を振り分けるべきだ。
海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
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『海の都の物語』なら、全巻揃えても5000円に届かない。こんなコスパの高いライター養成ギブスは他にないぞ。
もちろん、塩野七生先生の本でなくとも構わない。澤田が最近ハマってるのは磯田道史先生の本。
NHKの『英雄たちの選択』は毎回観てるし(だからこそ、それができない環境下に置かれる海外旅行はあまりいい行為とは言えない)、 この『龍馬史』は何度も読み返した。
結局、物書きになるのなら己が読書をするべきで、道はそれしかない。これはこのブログにも度々出てくる小野博士の教えでもあるんだけどね。
ガジェットライターはココに気をつける:格安3Dプリンター『Tiko』の失敗
2015年に300万ドル近くの資金をKickstarterで調達した『Tiko』という3Dプリンターがある。
200ドル以下の価格で50~250ミクロンの解像度に対応できるっつーことで話題になったものだけれど、結果から言えば全出資者の4分の1程度に出荷しただけで会社を畳んだ。残りの4分の3は製品を受け取れなかったわけだ。
ちなみに、実際に出荷された分の製品は案の定ダメダメだったらしい。ロクな造形もできなかったそうだ。
Tikoの開発者は、「プロトタイプから量産型にすることがこんなに難しいとは思ってなかった」と公言している。
欧米では、日本以上にホワイトカラーとブルーカラーの役割がきっちり分けられている。製品の構想をプロトタイプモデルにまでこぎつけるのはホワイトカラーの役割だけど、それをひとつの商品として市場に送り出すのはブルーカラーの仕事。ところが、クラウドファンディングの実行者というのは大抵ホワイトカラーの人間だ。ブルーカラーの苦労というものをナメてかかることがよくある。
だからこそ、「その製品が本当に具現化するのか」ということは誰にも分からない。
たまにいるのが、「こんな失敗プロジェクトをこのライターはあの時絶賛していた。責任取れ!」と言い出す同業者。
澤田が今まで書いた記事の中にも、結果的に大失敗した製品はあるはず。けれど、それを根拠に「澤田はトンデモライターだ」だなんて言われても困るんだよ。だって、ライターは予言者じゃないもの。
どうも中途半端なインテリほど、「予想的中率は100%じゃなきゃいけない」と思い込んでいる。そんなこと言ったら、競馬の予想家なんつー仕事は成立しない。
これは何度でも書くつもりなんだけど、クラウドファンディングが「ファンディング」である以上は、プロジェクトが大成するか否かは誰にも分からない。
極端な話、「資金調達に成功したプロジェクトのその後」なんつーのは9割9分の出資者にとっては大した意味なんか持たない。予め公言しているリターンさえ配送すればいい。そこまで割り切らんと、クラウドファンディングという仕組み自体が意味のないものになると澤田は考えている。
資金を調達し、それをどう使うかはプロジェクト実行者の裁量だ。そしてそれが見事開花するかどうかは、時の運としか言えない。
クラウドファンディングにプロジェクトを出した時点で、実はロクに事業計画を考えてないという場合もたまにある。或いは、その事業計画が資金調達後に狂っちまう場合もある。Tikoがそうだったように。