関わりたくないこんなライター4:「噴飯もの」という言葉を使うライター
これは「こんなライター2」で書いたような、中途半端なインテリによくいるタイプなんだけどね。
他のライターの記事を批判するのに「噴飯もの」という言葉を使う奴。このテの人間も要注意だ。
大体、「噴飯もの」という表現自体が下品なのに(食ったものを吐くんだぜ?)、それをさらっと使ってしまう無神経さが滅茶苦茶痛い。「こういうあり得ない結論の記事は、まさに噴飯ものだ」みたいな感じで本人は気楽に書いてるんだけど、もうその時点で当該のライターに宣戦布告してるんだよ。
物書きだけでテレフォンショッキングをやったら、2週間としないうちに最初の人の論敵が来るだろうということは既に書いた。
勤め人とは違い、ライターは個人事業主としてサバイブしなきゃいけない。そうである以上、思想が違くても性格が合わなくても必ずどこかで協力し合う必要がある。プロ野球のピッチャーが「レフトの選手は俺の気に食わない奴だから代えてくれ」と監督に言ったって、聞き入れてもらえるわけがないだろう。それと一緒だ。
だから己と意見の違う記事に遭遇しても、ハナからその記事のライターを全否定する「噴飯もの」という単語だけは絶対に使っちゃいけない。
それが分からないのなら、あとは戦争しかない。
文字通り、全面戦争だ。顔を合わせた瞬間にストリートファイト開始。どちらかが新しいショバを探し出したら、それを妨害する。それこそマリオカートで赤甲羅を投げつけるようなことをやるしかない。
そうするしかないじゃないか。だって、相手はこちらを対等の人間として見なしてないんだから。
どうして他人を中傷しちゃいけないかというと、その人が己の生業に影響を与える可能性が否定できないからだ。
そんなこと言うと「だったら自分の仕事にまったく影響を与えない奴をいじめてやろう」と胸の奥底で考える馬鹿もいるんだけど、仏教の教えを敢えて引っ張ってくるなら、全ての物事はつながっている。
どんな人間も、最初からナメてかかるわけにはいかない。
関わりたくないこんなライター3:メンヘラ女
物書きの世界にも「あなた、ちょっと病院行ったほうがいいんじゃない?」という感じの女性ライターが存在する。
こんな奴がいた。
「ねえ澤田さん、さっき澤田さんが言ってたこと、もっと詳しく聞かせてくださいよ」
澤田がインドネシアの地方島嶼部に直接足を運び、そこで掴んだ情報について詳しく教えてくれということだ。
ところがそのしばらくあと、
「澤田さんって、他のライターさんを全然尊敬してないですよね? そんなんでライターとしてやっていけると思います?」
と、どういうわけか説教を始める。ちなみに、澤田のほうが年上だ。
そしてさらにそのしばらくあと、
「澤田さん、あのこと教えてください。これについても教えてください。あ、そういえばそのことについてもetc」
と、教えて教えて教えて攻勢。はっきり言って大したタマじゃないから色仕掛けとかそういうのじゃないんだけど(今時こんなこと書くと怒られるのか?)、とにかく「やってやってやって」ばかりの人間だった。なのに、舌の乾かないうちに面と向かって相手を非難し出す。
全部ひらがなで書く、旅行メディアの○○○っ○のライターだっつーことだけは明らかにしておく。
他人に甘えるそぶりをしたかと思えば、その直後に同じ相手に噛みつく。
澤田は医者じゃないから何とも言えないんだけど、これってさぁ…もしかしてサイコパスかね?
でね、そいつのFacebook見たことあるんだけど、まあ細かい記述のスレッドなのよ。ここだけ見てると丁寧で、きめ細かい性格かなと思うんだけど。ところが、実際会って話したら感情の起伏が激しくて同業他者を見下してるんだよ。他人の陰口を叩いたりもしてたもの。
表裏の落差が大きいけれど、傍からはそれが見え見えなんだよ。
アレだね、表面的にきめ細かさを繕っても、絶対に綻びが出るものなんだね。だったら澤田のように、最初っからいい加減かつデタラメでいたほうが心の健康にもいいんだよ。へーーーーっへっへっへっへっへっ!
関わりたくないこんなライター2:「デマと戦います!」と公言するライター
「デマと戦います!」
Twitterの紹介欄にそう書くライターが、たまにいる。
もちろん、澤田もネット上のデマは許せない。特にこの前の煽り運転殴打事件の時の「ガラケー女」に関するデマは酷かった。こういうデマとは戦うべきだ。
ところが、冒頭の「デマと戦います!」の「デマ」はガラケー女にされた女性の話でも、「犯人は金村竜一」の話でもない。
「デマと戦います!」と高々に宣言するライターの殆どは、己のブログで政治のことを書いている。要はこの人にとっての「デマ」とは「自分のものとは異なる意見」であって、単に己の気に食わないものを潰しにかかっているわけだ。
政治に絡むことを語る以上、万人とその意見を合わすことは絶対にできない。
それに、ひとつの物事も見る角度によって姿が全然違う。そんなのは小学生でも知ってる常識だ。
ところが、それが分からない奴もいる。酷いのは、「澤田は右翼だ!」と決めつけたジャカルタ在住(自称)のライターね。どうしてそう言われたのか、分からない。ただ、そいつは自分でメディアを運営していて(個人ブログの延長線上だけどね)、己のTwitterの紹介欄にも「デマと戦います!」と書いている。
澤田は、たとえ相手が極右だろうと極左だろうと、最低限の敬意を払ってくれれば仲良くするし話も聞くよ。「最低限の敬意」ったって、そんな大したもんじゃない。お世辞でも「お疲れ様。いつも記事読んでますよ」とか「今度メシでも食いに行きません?」とか「一緒にサバゲー行こうよ!」みたいな感じで言ってくれれば、それでいいから。
それすらできない奴って、結構いるんだよ。
己と意見が違う記事をググって探し出し、「あいつの言ってることはデマだ!」と断定する。いざ裁判沙汰になったら訴えられるのはどっちか想像できないのかね?
そういうライターには、仲のいい同業者がいない。それって「正義感が強い故の不器用」だと本人はカンチガイしてるんだけど、そうじゃないからね? ただの無礼者だからね?
まあ、ライターなんてのは基本的にテメェひとりでやるもんなんだけど、それでも飯のタネになるような話を共有してくれる同業者と必ずつながっている。けれど、同業他者への敬意すら示さず「あれはデマ、これもデマ」と手当たり次第決めつける奴に仕事を回すお人好しはいない。
よくたとえのつもりで言うんだけど、もしライターや作家だけでテレフォンショッキングをやったら、恐らく2週間としないうちに最初の人の論敵が来るんじゃないだろうか。
それに耐えられないってんなら、物書きなんてやめたほうがいい。
で、この「デマと戦います!」と公言する「異種を受け入れられない物書き」は中途半端なインテリかボンボンだったりする。
生まれてから今までフラスコの中で生きてきて、なおかつそれを自覚してないタイプだ。
徹頭徹尾平民育ちの澤田が、一番嫌いな人種でもあるんだが。
名古屋のファイアトーチ騒動から見る「学校の伝統」
この土日は例のデマについてあれこれ書いた。
ひとつのことにあまり執着するのはよくないとは思ったけれど、それでもあれは見逃すことはできなかった。
けれど、今日からはまた正常運転に戻したい。
極端な話、小中学校に「伝統」というものは必要ない。
邪魔なだけだ、と思う。
公立なら尚更で、その目的が国民に義務教育を提供することであれば、学校内の伝統なんてものはないほうがいい。
伝統ガーと言ってるのは専ら周囲の大人で、学校は彼らのために存在する施設じゃない。子供たちに教育を与えるための施設だ。それ以上でも、それ以下でもない。
もちろんその原理は、名古屋市内のファイアトーチの件でも言える。
地元では賛否両論とのこと。ただ、「ファイアトーチを続けてほしい」という人は言っちゃ悪いけれど自己満足に浸っているに過ぎない。
火の使い方を生徒に教える目的なら、安全に火を起こすためのアウトドアテクニックを教えればいい。
内田良氏は「火を振り回している時点で、非常識な指導だ」と断言しているけれど、それじゃあ何でそんな非常識な指導が横行しているかというと、「伝統」とやらにいつまでもこだわっている周囲の大人に非があるんじゃないか。
「青春時代」は、あくまでも長い長い生涯の途中地点に過ぎない。
澤田に言わせれば、青春時代を過ぎたあとの人生のほうが何十倍も刺激的で、冒険的で、波乱に富んでいる。逆に「青春時代を超える刺激に遭遇したことがない」と言ってしまう人はちょっとヤバい。
ただし、高校を卒業した瞬間から「在学中の刺激をいつまでも味わいたい」と考えてしまう人は確かに存在する。この先、今まで以上の刺激に巡り合えないものだとハナから決めてかかる態度は、その人の持つ可能性を大幅に縮小させてしまう。
人生の絶頂点は中学~高校の青春期で、その甘酸っぱさをいつまでも味わいたい。
そう思案している人が、勝手に母校の「伝統」を創造してしまう。若い頃の思い出を永久保存し、なおかつ美化するための極めて都合のいい「伝統」が公立学校の中に横たわっている。
学校の伝統にこだわる人にとって、その学校の在校生は「後輩」だ。何歳離れていようが関係ない。たとえ自分が60歳だとしても、15歳の中学3年生を本気で「後輩」だと思っている。
澤田の感覚で言えば、たとえ出身校が同じでも在学期間が被ってなければ「後輩」でも何でもない。ただの他人だ。
学校とは、教育を受けるための拠点に過ぎない。だからOBは学校に対して何ら発言力を持っていないのが正常だ。
「ファイアトーチを廃止するな」と言ってるOBは、よほど味気のない人生を送ってるんだろうな、と澤田は邪推している。
「自分は捕まらない」という能天気さがデマを拡散させる
「ガラケー女」は喜本奈津子という名前だった。
これは警察発表だから、間違いない。間違いないからこそ、こうやって堂々と犯人の本名を書ける。
喜本容疑者が捕まらなければ、それまで「ガラケー女」と判断されていた女性はいつまでも誹謗中傷を浴びていたはずだ。
今からほんの6時間前は、
「お前が犯人じゃない証拠を見せろ!」
とTwitter民は書き込んでいた。今では、
「真犯人の顔にモザイクをつけたマスコミが悪い!」
ということになっている。
さらに酷いことに、無関係の女性を犯人だと決めつけて中傷するツイートが今でもTwitterに残っている。
どうして削除しないのか。それは「自分は捕まらない」という能天気さがあるからだ。
「たかだかネットの揉め事」と思っているから、女性の無実が晴れた今でも自分の所業を悔い改めようとはしない。
スマホの液晶画面の向こう側にいる人間に人権はないと思っている。というより、Siriの合成音声のようなものだと考えている。
だから、その「合成音声」から損害賠償を請求されるとは夢にも思っていない。
この心理、あちこちで煽り運転を繰り返した宮崎文夫のそれとどう違うんだ?
これからデマを拡散した人間の捜査が始まる。投稿をリツイートした人間も対象だ。安くてもウン十万円の損害賠償と弁護費用がすっ飛ぶ羽目になる。
けれど、それは当然の報いだ。
「たかだかネットの揉め事」という言い訳は、もう通用しない。
「お前が犯人じゃないという証拠を出せ!」と言い出す奴ら
事件に全く関係のない人が、ある日突然ネット上で犯人扱いされる。
もちろん、その人は身に覚えがないから弁明する。その時に必ず出現するのが、
「お前が犯人じゃないという証拠を出せ!」
ということを言い出す奴。いい大人がこんなことを平然と言ってるんだから、ネットはやっぱ怖い。
ちょっと考えれば小学生でも分かることなんだけど、「犯人じゃない証拠」なんてのは絶対に出せない。
近代司法は「犯人である証拠」を巡る論争で、それ以上のものはない。「犯人じゃない証拠」を基準にする裁判は、それこそ中世ヨーロッパの魔女狩りや異端尋問と同じだ。どんな人間でも「魔女」に仕立て上げることができる。
その人が「魔女」ではないということが判明した後も、
「疑われるほうが悪い。普段からの素行が悪いから、こういう時に疑われるんじゃないか?」
と、馬鹿な言い訳をする。ここまで来ると、完全に自己保身だ。
己はマジョリティーの側から一歩も出ないまま、マイノリティーに属する人やスケープゴートにされた人に対して石を投げる。やってて気分がいいだろう。日頃の鬱憤を晴らせる絶好の機会だ。
そして次に起こるのは、石を投げる者同士の不毛な争い。
「お前はあの時根拠のないデマを流した。謝罪しろ!」
という具合に、デマ拡散に手を貸した者同士が揉め始める。
最後まで他人に石を投げ続けたい欲求が、人間を狂わせていく。
強盗バラバを釈放して代わりにイエスを磔にした2000年前の大衆と、ネットのデマに躍らされる現代人。そこに進化は殆どない。
煽り運転の宮崎文夫と一緒にいた「ガラケー女」の身元特定は、やっぱりデマだ
「ネットの特定班の情報は鵜呑みにできない」ということが常識になりつつある2019年、それでも我々日本人は愚かな過ちを犯している。
Instagramで宮崎文夫とつながっているというだけで、例のガラケー撮影女に認定されてしまった女性。既に弁護士を立てて、法的措置を検討中とのこと。
これじゃ完全に「スマイリーキクチ事件」の繰り返しだ。
スマイリーキクチさんの一件はSNSが普及する前の話だけど、そこから我々は何にも学習してこなかったということになる。
澤田のブログで何度も書いていることだけど、「あいつが犯人だ」と決めつける特定班はそれを稼ぎの種にしている。
大衆をまとめサイトに誘導し、Googleの広告料を頂戴している。
これは貧困ビジネスと殆ど同じ構図であって、暇があって金がない人々から「時間」という財産を搾取している。
そもそも、実際に関与したかしてないかにかかわらず指名手配されてもいない人物を「あいつが犯人だ」と集団で決めつけるのは、中世ヨーロッパの異端尋問と一緒だ。
それがいかに野蛮な行為か、分からない人たちが一定数存在する。21世紀もそろそろ20年経つのに。
東名高速煽り運転の時に誤爆を受けた会社は、デマを拡散した8人に計880万円の損害賠償を請求している。
つまり、此度の「ガラケー女事件」でデマを書き込んだ人間も、最低100万円の請求を覚悟しなければならないということだ。
自信満々で「あいつがガラケー女」と書き込んでた人間がごく普通の会社員とか、それこそ非正規の派遣労働者だったらどうするのよ?
100万円、払えるの?
払えないよね?
それ以上に、SNSであれだけ拡散協力してくれていた取り巻きは、いざ自分が現実世界で窮地に陥っても絶対に助けてくれない。
当たり前だ。何が悲しくて、ネット上でしかつながりのない人間を助けなきゃいけないんだ。
今でも「あいつがガラケー女」と言ってるTwitterユーザーは、今のうちに100万円を工面する方法を思案したほうがいい。