たまには澤田もエンターテイナー

ノンフィクションライター澤田が、このブログではエンターテイナーになった気でいろいろ振る舞います。

Tumblrからはてなへ引っ越しできちまったよ

すげぇな、はてなブログ。こんなに簡単に、しかもTumblrから引っ越しできるもんなんだ。

この作業に関しては、こちらの記事を参考にした。ありがとうございます。

satoh-d.hatenablog.com

Tumblrの最初の記事で「やっぱ舶来のブログサービスはいいなぁ」なんて書いてたんだけど、使ってるうちにいろいろ不具合があったんだよ。

まず、タイトルつける時にローマ字入力しようとすると、一番初めのアルファベットが勝手に大文字になって入力確定される。要は日本語への完全ローカライズに対応してないってことだね。それはハッシュタグ入力も同じ。

あと、他にもいろいろ面倒な部分も否めなかった。ごめんねTumblr。でも、今後もTumblrでの更新は続けていきたいと思う。あっちでは澤田オフィスの日常とか、そういう話題がいいかな。

はてなでは、自分の知ってる分野についてとことん突き詰めた記事を書きたい。失敗しちまったクラウドファンディングの案件とか、商業メディアじゃなかなか書かせてくれないようなものとか。

それにしても、未だに届かねぇんだけどこのスマホケース。

www.kickstarter.com

去年の8月に配送予定だったのが、今に至るまで梨のつぶて。しかもその間に、AppleiPhoneの世代交代を2回もやってる。

このあたり、iPhone用保護ケースをクラウドファンディング案件にするデメリットだよなぁ……。この話については、また後日詳しく。

学校の読書感想文がプロ物書きを育てない3つの理由

澤田は専業物書きだ。今のところ、物書き以外の仕事はしてない。

人様の前でそう言うと、純粋に羨ましがられることが大体。自慢してるように思われるかもしれないけど、本当なんだから仕方ない。で、そのあとによく言われるのが、

「澤田さんって、小学校や中学校の頃は読書感想文が得意だったんですね?」

ということ。「ですか?」ではなく「ですね?」と断定調に問われることが結構多いんだ。

いや、読書感想文はむしろ苦手だったんだよ。そう返すと今度は、

「なるほど、それじゃあその苦手を克服したんですね?」

と切り返されちまう。

いや、それも違うんだ。澤田は読書感想文というものに、昔から価値を見出してはいない。ていうか、あんなもん即刻やめればいいとすら思ってる。

断言するけれど、読書感想文は将来の物書きを育てることは絶対にない。ライターの中には子供の頃に読書感想文が得意だったという人もいるかもしれないけれど、それじゃあ読書感想文がその人のライターとしてのスキルを磨いたのかというと、それはまずあり得ないと思う。それとはまったく別の要素が、その人を物書きにしたということははっきり言える。

読書感想文を書く技能ほど、物書きにとって不毛なものはない。理由は3つ。

1.本に「教訓」を求める偉い人たち

教育分野に携わる偉い人は、どんな本に対しても必ず実利を求める。

「この本を読んだらこういう教訓が得られる」という前提で、子供に読ませる本を選んでいる。

それって当たり前じゃないか? と思われるかもしれないけれど、それじゃあ単純にバカバカしくて面白いという趣旨の本はダメなのか?

こっちが読後に感想文なんぞ書く必要性が発生しないほど、最高にクレイジーで最高に面白い本はこの世にたくさん存在する。たとえば澤田は、小学4年生の頃に志茂田景樹先生の『戦国の長嶋巨人軍』を図書館から借りて読んだ。もうね、子供の目から見てもとんでもねぇ本だって分かったよ。

でも、現実問題そういう本のほうがガッツリ記憶に焼き付いてる。

本に対して教訓を求めようとすると、最初から「教訓探し」に夢中になって本の内容が頭に入らない。だから読み方も断片的というか、ページを細切れにして「教訓探し」の役に立つような部分だけを消化する感じになるんだよ。読書感想文の指定図書だって、あれは要するに偉い人たちが子供に「教訓探しの授業」をやらせるための材料でしょ? しかもその「教訓」は、ハナから大人たちが箇所を指定しているものだ。だから読書感想文自体が「先生の琴線に触れるような内容を予想して書く」というものになっている。

そういうのをやめて、真っさらな脳ミソで本屋か図書館を巡っていれば必ずクレイジーな本に辿り着く。そして、自分が書き手になった時に「売れるものは何か」をちゃんと考えることができる。

ちょっと想像すれば分かることなんだけれど、ハナから「教訓の普及」を目的に書かれた本って十中八九教条的で、説教臭い内容になっていく。そんな文章しか書けない物書きは、そもそも物書きとして自立できない。何しろ我々の世界は、みんなが思っている以上にパイが少ないんだから。

2.長い文章を書く癖がつく

「長い文章を書ける人は凄い」と、日本人は心のどこかで考えている。

冗談じゃない。文章はスピーチと一緒で、こちらがしっかり心がけないといつまでも終わらないものだ。文章は終わり方を先に考える必要がある。

澤田の物書きの師匠は東洋史学の小野勝也博士という人で、通っていた高校に講師として在籍していた。その時の選択授業で小野博士からいろいろ教わったっつー経緯だ。

当時の澤田は、「文章をどう終わらせるか」についてだいぶ悩んでいた。着物の帯をきゅっと締めるような最後の一文に、1時間近く思案する状態だった。結局、それをやるにはそれまで書いた文章の内容をまとめなければならない。高校時分の澤田は、それがとにかく苦手だった。

「内容をまとめる」というのは天賦の才能、と思っていたほど。ところが小野博士は、

「いや、天賦の才能なんかじゃない。訓練でちゃんと身につくものだ」

と言ってくれた。その言葉のおかげで、今の澤田が存在する。

つまり小野博士が教えてくれたのは「読んだ文章の要点をまとめる」という技術だ。それができれば、自分がアウトプットに回った際にもその要点を整理して最後の一文を書けるようになる。それじゃあ読書感想文で「まとめる技能」が身につくのか、というのが澤田の疑問だ。

読書感想文っつーのは、読んだ本の内容をさらに広げる作業だと澤田は考えている。この本の主人公と自分の生活を重ねてここに共通点がある、という感じだね。けれどこの場合、本の内容に自分の身の上話をプラスアルファしちまうから話がまとまるどころか余計に大きくなる。結果、長文になる。

それが癖になったら最悪だ。物書き、特にWeb媒体で書くライターにはそんな癖は必要ない。逆に、『薔薇の名前』とか『カラマーゾフの兄弟』みたいな長く難解な小説をたった3行に要約する技術が物書きの世界ではモノを言う。

3.「本の内容を忘れないため」という奇妙な目的

読書感想文全国コンクールに携わっている偉い人が、「読書感想文の目的は何?」という質問に対してこう答えていた記事をどこかで読んだ。

「せっかく読んだ本の内容を、いつまでも忘れないため」

だったら、おたくは本を読破する度にちゃんと感想文書いてるの? という話。

毛沢東語録を丸暗記する紅衛兵じゃないんだから、別に読んだ本の内容を少しずつ忘却しても誰も文句は言えないはずだ。けれど、その本の内容を記憶している間に己の行動や考え方にはっきりと変化が現れた。それでいいじゃないか。

読書の目的が「自分を成長させるため」だとしたら、それが実現さえすれば本の内容をいつまでも覚えているか否かということは重要じゃないはずだ。だから、自分の書いた文章が他人に読まれることはすごく嬉しいけれど、「澤田の書いた記事をこの先ずっと記憶していてください」とはもちろん言えない。そんなのは物書きの仕事じゃない。その時々で何かしらの気づきを読者に与えれば、記事の役割はそれで終わり。

頭の固い人は、澤田のその考え方に対して「文章をジャンクフードみたいに扱うな!」とか何とか言うんだけどね。ただ、さっきも書いたように物書きは意外とパイが少ない業界だから。本にもWeb記事にも賞味期限があって、物書きは常に新鮮なものを生み出さなきゃならない。逆に読者の側も、過去記事の内容を忘却して新しく配信される文章に飛びつく権利があるし、そうしてくれなきゃこっちも商売にならない。

 

このブログ記事を書いてる最中も、先に触れた「文章をどう終わらせるか」について悩んでいる。

個人ブログなんだからこのままぶった切っちまえばいいのかもしれない。けれど、これがメディアに入稿する記事だったらそうはいかない。だって澤田は物書きでオマンマ食ってるんだから。

そう考えると、読書感想文っつーのは別に商業ライターを育てるための教材ではないという事実に突き当り、この記事のタイトル「学校の読書感想文がプロ物書きを育てない3つの理由」もだいぶナンセンスな一文だということがよく分かる。

鳥越俊太郎って、そこまで世に疎い人間だったっけ?

この人、ジャーナリストですよ?

鳥越俊太郎氏(78)が電子マネー強制社会に怒り 「私たちは現金世代」(マネーポストWeb)

https://www.moneypost.jp/326035

「私も書籍や日用品の購入をカード決済の通販に頼ることが増えてきた。確かに便利だけれど、レジで直接、お釣りを渡してもらって会話があるほうが、生活が明るくなるでしょ」

いや、明るくなんねぇんだよ。特に新興国では。

インドネシアは1万3000という島を抱えていて、そのすべてにATMがあるというわけじゃない。そもそも、国民の半分が銀行口座を持っていないという状態。そんな中で農村部の一次生産者がジャカルタのスーパーマーケットに作物を売ろうとしたら、必ず仲買人を何人を経由しないといけないわけ。

でもそれって、要は決済を現金でやってるからでしょ。電子マネーで一次生産者とスーパーマーケットがつながれば、仲買人もいなくなって一次生産者は今まで以上に高く作物を売れるし、消費者はその作物を安く買うことができるわけだ。

ジョコ・ウィドド大統領はマスコミの前で「フィンテックは仲買人をなくす」とはっきり言ってる。

Jokowi: Fintech Bisa Putus Mata Rantai Tengkulak(VIVA)

https://www.viva.co.id/digital/digilife/815511-jokowi-fintech-bisa-putus-mata-rantai-tengkulak

ジョコ大統領はスラカルタの貧乏大工の息子で、「貧困を生み出す仕組み」については骨の髄まで知ってる人だ。その言葉は重い。

メルカリが海外のエンジニアを大量雇用した話は一般ニュースでも大きく報道されてたけど、そりゃフィンテック慣れした新興国の若い子のほうが使えるもの。いつまでも「発展途上国」なんて言ってバカにしてらんないよ。

「AIの自動投資」を謳う怪しい儲け話

来年あたり、「AIを使ってるからこの投資は確実に儲かりますよ!」みたいな詐欺が摘発されるんじゃないかと澤田は考えている。

で、そういうのは例によって最先端テクノロジーにあんま詳しくない高齢者が食われる。ジャパンライフとかL&Gとかと一緒だね。

AIっつーのは、大人数の行動パターンからアルゴリズムを取り出して「ここではこうした方がいい」ということを指示するだけのもの。それ以上のことは起きない。で、投資の世界での「大人数」とは、もちろん個人投資家を指す。

つまりAIは「今後、世界の投資家がどう動くか」ということは予想できるけれど、世界情勢とか株価を揺るがすような大事件とかのイレギュラーな要素までは読み取ることができない。当たり前だけどね。

世界の投資家がひたすら突き進んでいた道の先に崖があった。AIはその悲劇を止めることができない、というより、そういう性質のものじゃない。それぞれの顧客のニーズに合わせた投資の振り分けならできるけれど、役目としてはそれだけ。

結局、できるだけ信用格付けの高い商品をいくつもピックアップして分散投資するのが一番確実な方法ということになる。

大人になった野比のび太について、本気で考察してみた。

ドラえもん第1話にこんな話が出てくる。

もしドラえもんが来なかった場合、のび太は悲惨な人生を送るという話で、孫がわざわざその様子を撮影したアルバムを持ってくる。

大学一浪、卒業後は就職先が見つからなかったという理由で起業、その5年後に社屋が全焼し、恐らくそれがたたって起業7年で倒産……。

これが「のび太はスペック高過ぎ」とネットで言われている所以だ。

澤田もそう思う。

たとえばのび太よりも10歳ほど年上のスティーブ・ジョブズは、大学を半年で中退したあとはアタリに就職している。あのジョブズですら、就職の経験があるということに注目してほしい。対してのび太は大学卒業直後に起業した。これをカリスマ起業家と言わずに何と表現するんだ?

しかも、リアルの90年代に当てはめればのび太の抱えていた苦悩と彼の清廉潔白さがよく分かる。北海道拓殖銀行山一證券が潰れたのは、ちょうどこの頃だ。けれどのび太の性格からすると、拓銀や山一もやってた粉飾決済とか不良債権隠しなんかは絶対やらないと思う。というより、そんな度胸が彼にあるとは思えない。

本社が火事で全焼しても、それは保険でカバーできるはずだ。しかも本社全焼から2年も会社を延命させたという手腕をのび太は発揮している。

ただ、恐らくのび太の会社は野比家の同族経営だったんじゃないか?

というのも、「会社つぶれ借金取りおしかけ」というところがすごく気になる。事業を負債付きで譲渡できればいいはずなのに、それをしなかったということだ。まったくの徒手空拳から7年も存続した事業だから、買い手を見つけるのは難しくないと思う。若乃花ちゃんこダイニング若を売っ払ったのと同じだね。ところが、会社経営に関してまったく無知な野比家の誰かが事業譲渡に反対した……という流れなんじゃないかと澤田は考える。

証拠はないけど、反対したのは多分母親だ。ヒステリー症で己の価値観、先入観を息子に押し付けるあの母親。「あんたにはもう会社を立て直すしかないの! 会社を売ったらあんたはただの無職なのよ!」とのび太に迫って、彼もそれを跳ね除けることができなかった可能性がある。

息子が一時的にでも無職になることを母親が恐れたせいで、のび太はすぐにでも手放せる負債を抱えることになった。

人一倍強迫観念が強い上、根からの専業主婦だから資本主義経済の仕組みに関しては何も知らない。にも関わらず、子供の事業に干渉してしまった。これは悲劇以外の何ものでもない。

逆に、事業譲渡さえ済ませればのび太の未来はかなり明るい。銀行もベンチャーキャピタルも、のび太の経歴には一目置くはずだ。

『ちびまる子ちゃん』が大嫌いだった

静岡市生まれ相模原市育ちの澤田は、ちびまる子ちゃんが好きじゃない、というよりも本当に嫌いだった。

澤田が小学校に上がる頃、もうアニメは始まっていた。子供心に「こいつは本っっっ当にヘソ曲がりだよなぁ」「姉貴も母ちゃんも怒ってばかりじゃないか」とアニメを捉えていた。それよりも、自分の溢れる才能とご先祖様の遺産を活かしていろんなものを作る『キテレツ大百科』のほうが何百倍も大好きだった。

澤田のちびまる子ちゃん嫌い、というよりもさくら作品嫌いは20代になっても心に残ってたんだけど、それが三十路を迎えると一転した。

まる子=さくら先生の心情が、30歳を過ぎてようやく理解できるようになった。まる子は「ひねくれ者」なんじゃなくて、誰よりも精神年齢の高い小学生だったということに気づいたわけだ。何てことはない、まる子の精神年齢に澤田はようやく追いついただけだ。

2年ほど前からさくら先生の作品を少しずつ読んでたりするんだけど、内容のひとつひとつが明らかに「小学生のもの」ではないんだよ。だから、今のティーンエイジャーにさくら作品を勧めても、多分理解してくれないんじゃないかと思う。若いうちは、「まる子は性格の悪い小学生」にしか見えないから。

けれど、大人になるってことはつまるところ「まる子のようになる」っつーことだからね。

【澤田の書評】司馬遼太郎の『風塵抄』が面白過ぎる

10代の頃にも読んでるんだけど、その頃は「爺さんの独り言」にしか思えなかったなぁ。

ところが、三十路になった今読んでみるとすっげぇ面白い。

産経新聞に月一のペースで連載されていた随筆集なんだけど、特に『“独学”のすすめ』は本当に良かった。どうして司馬遼太郎が学校嫌いなのか、を自己解説している。

司馬が中学1年生の時、英語の先生に「ニューヨークってどういう意味ですか?」と質問した。ところがその先生は、「地名に意味なんてあるか!」と怒鳴った。不愉快な気持ちになりながらも学校からの帰り際に図書館へ寄り、ニューヨークの意味を調べてみた。アメリカの宗主国だったイギリスの王室がそう名付けた、ということがすぐに分かったという話だ。

学校の先生が教えてくれなかった知識を、図書館はタダで提供してくれる。司馬が学校嫌いの図書館好きになった理由は、これだそうだ。

で、『受験の世』というタイトルの随筆にはこうある。本当に学問をしたい者こそ大学に行くべきだけど、現実問題そういう人間は決して多くないという。

教養を身につけたいのなら、大学ではなくほうぼうの塾へ通えばいい。何なら図書館に4年か5年通うのもアリ、だそうだ。

「文化系の大学で教養として学ぶようなことは、本を読むことで十分である」

逆に、何かしらのきっかけで10代のうちから良書や大文芸家の著作に巡り会えたとしたら、それは宝くじで何億円当たるより幸運なことじゃないかと澤田は思う。

2018年に三十路を迎えた人にとっても読みやすい文章だし、何よりこれ1冊で見ず知らずの他人とも議論ができる。こんな便利な本、他にないぞ。